打吹山と打吹城 特集
倉吉白壁土蔵群ができるきっかけとなった打吹城をはじめ、歴史・まち歩き・アウトドアなどが一緒になって楽しめる白壁土蔵群エリア。
今回は打吹山周辺に視点を当ててお伝えします。
森林浴の森100選 標高204mの気軽なトレッキングができる「打吹山」
打吹山山頂、室町時代に築城され一国一城令で廃城になった山城「打吹城」
打吹山に残る伝説「天女伝説」
羽衣池で過去を整理し、結び直す、天女伝説から生まれた「ほどき紙」
打吹山入り口にあり、光格天皇の御生母を祀る「大江神社」
皇太子の山陰行啓を記念して明治時代にできた都市公園「打吹公園」
倉吉倉吉白壁土蔵群のまち歩き
森林浴の森100選 標高204mの気軽なトレッキングができる「打吹山」
森林浴の森100選に選定された山で、倉吉白壁土蔵群の町なかからほど近い場所にある「打吹山」。
室町時代〜江戸時代には「打吹城」が建っていたことがあり、トレッキングしながら歴史も楽しめる山です。
打吹山に登るルート2つあり、西側からの打吹城跡トレッキングコース(約3キロ)は打吹公園の「小動物コーナー」から上がっていきます。
入り口は大江神社が目印。この神社は光格天皇の御生母が祀られているのでこちらでご説明しますね。
頂上までの道は2メートルくらいの道幅の登山道を歩けます。
5月上旬は登り始めてすぐ、ツツジが咲いているのも見かけますよ。
道中にある櫓の形をした展望台に上がると、遠くに白壁土蔵群の町並みが見渡せます。
展望台があるのは入り口から頂上までの道の約半分といったところでしょうか。
頂上まではまだまだ歩きます。
頂上から下山する時は、右手に植林地をみながら少し細い登山道を歩きます。
入り口から頂上までは約30分、下山するまでは約1時間くらいかかります。
打吹山の道の分かれ目には、トレッキングコースの案内板があり初めてでも安心ですが、野生動物や虫がいたりすることもありますので、気をつけてください。
小さいお子様は大人と歩いてくださいね。
打吹山山頂、室町時代に築城され一国一城令で廃城になった山城「打吹城」
倉吉白壁土蔵群は元々「打吹城」の城下町として作られたそうです。
打吹城は室町時代に伯耆守護「山名師義」が打吹山に築いた城で、江戸時代初頭まで続きました。
応仁の乱以降、戦国時代は倉吉も戦乱に巻き込まれ、尼子氏、毛利氏、南条氏(湯梨浜の羽衣石城主)と城主が代わっていきます。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後は米子城主の中村氏が伯耆国を支配していましたが、1609年(慶長14年)に中村忠一氏が急逝。
後継がなかったため、江戸幕府の直轄の天領となりました。
1615年(元和元年)には一国一城令が出され、伯耆国では米子城以外の城郭が取り壊され、打吹城は廃城になりました。
現在、打吹山山頂には「打吹城址」と刻まれた石碑があります。
石碑は高台にありますが、見下ろすと緑が覆い繁っており、城下の町並みを望むことはできません。
打吹城天守閣がどのようなものだったのか・・・残念ながら資料は残っていないそうです。
打吹山山頂は平坦な広場になっており、目立つ石垣はありませんが、石垣跡がありますので探してみてください。
頂上近くには「打吹城備前丸跡」広場があり、備前丸には頂上の本丸を守るため、南条備前守が住んだようです。
下山の際に出会った「武者溜」。
この場所は軍勢の集合用に城門近くに設けられた広場ともいわれています。
はっきりしたことは不明ですが随所に歴史が感じられますね。
鳥取県立博物館所蔵資料(倉吉陣屋絵図)
1932年(寛永9年)からは、鳥取藩の家老である荒尾氏が陣屋を構え、陣屋町として発展していきます。
武家町を中心に商人町・職人町にわかれ、魚町から西町にかけて玉川沿いに土蔵が立ち並び千歯扱きや木綿の商いを行う経済都市として発展したそうです。
打吹山に残る伝説「天女伝説」
(天女伝説)「ひとりの百姓が、山腹の石の上に美しく芳しい衣が置いてあるのを見つけました。
さらによく見ると、そばの流れで、若い美しい女性が水を浴びているではありませんか。
「天女にちがいない」石の上の衣は、天の羽衣ということになる。
百姓はその羽衣を盗みました。
天女は羽衣がないので天上に帰ることができず、百姓の妻になりました。
数年たち、二人の子どももできました。
天女は、子どもに羽衣のありかをたずねました。
子どもは、父親の隠していた羽衣を、母親に渡しました。
天女は、まさにも天にものぼるよろこびで、羽衣を着けると、天上に帰ってしまったのです。
二人の子どもは、母を慕って泣きました。
母が好きだった音楽で、母を呼びもどそうと考えました。
近くの山に登り、太鼓と笛を演奏しました。
-天女が衣を置いていた山を羽衣石山、また、子どもたちが一生懸命、大鼓を打ち笛を吹きならした山を打吹山といいます。」
成徳小学校の打吹天女壁画。
母の帰りを願った子どもたちの名前は「お吉」と「お倉」というそうです。
天女伝説から生まれた羽衣池の「ほどき紙」
天女が過去を整理し、天に戻って行ったように「からまった糸をほどくように過去を整理し、新しく結び直す」ことを願って羽衣池に流す「ほどき紙」。
忘れたい過去と希望する未来を「ほどき紙」にしたため、打吹公園の羽衣池に そっと浮かべると、紙と同時に過去も水に溶け、思いを昇華させてくれます。
紙が溶ければ新しい自分の始まりです。
良縁福守り付き。倉吉白壁土蔵群観光案内所で赤色・青色のどちらかを選んでいただきます。
打吹山入り口にあり、光格天皇の御生母を祀る「大江神社」
倉吉に生まれ育ち、光格天皇のご生母となった 大江磐代君が祀られる「大江神社」。
明治13年(1875年)に創建され、平成11年(1999年)に再建されました。
光格天皇は第119代天皇で、安永8年(1779年)に即位しました。
次代の仁孝天皇 以後は皇太子(天皇の直系子孫)によって皇位が継承され、この皇統が現在の皇室に至ります。
第126代 令和時代の今上天皇は光格天皇からみて仍孫(7代後の子孫)にあたります。
また、光格天皇の父、閑院宮典仁親王の実妹が、江戸幕府第10代将軍徳川家治の御台所倫子女王なことから、光格天皇は徳川家治の義理の甥にあたるそうです。
皇太子の山陰行啓を記念して明治時代にできた都市公園「打吹公園」
打吹山の麓にあり、さくらの名所100選に選ばれている「打吹公園」。
明治40年皇太子(後の大正天皇)が山陰に訪れた山陰行啓(視察)を記念して、打吹山中腹を切り開き明治37年に造園されました。
山陰行啓は鳥取島根両県知事の粘り強い要求で実現した、明治天皇の名代として最初の公式視察だったそうです。
園内には公会堂としての有親館、駐泊用の飛龍閣も建てられました。
倉吉では、この行啓を機に鉄道・道路をはじめとする社会インフラの整備が急速に進み、町の様子が一変。
5年後の明治45年には山陰線が全線開通したことにより、京阪神へのアクセスが格段に向上しました。
打吹公園内には羽衣池があり、池に落ちた花びらと赤い橋などが幻想的な風景を作り出します。
桜の開花時期には毎年倉吉春まつりが開催され、夜桜も楽しめるなど多くの人が訪れています。
倉吉白壁土蔵群のまち歩き
打吹山の麓、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている「倉吉白壁土蔵群」。
かおり風景100選、美しい日本の歴史的風土100選にも選ばれています。
江戸時代から続く、玉川沿いの商家の蔵の白い漆喰壁と赤い石州瓦の屋根が特徴。
白壁土蔵の背後には、打吹山も綺麗に見えますね。
玉川には蔵のある敷地内へ続く石橋がかかっており、表通りまで通り抜けることもできます。
倉吉は木綿の生産が盛んで、江戸時代末期には「倉吉絣」が織られるようになったと伝わります。
明治時代になるとさらに盛んに織られ、産業として発展しました。
精巧な花鳥風月が着物の中に織り込まれており、現代でも倉吉絣保存会がその技術を継承しています。
「倉吉絣」を着てまち歩きもできますので、伝統工芸と町並みに歴史を感じながら、倉吉白壁土蔵群を歩いてみては。