歴史に触れる history

打吹城跡 

標高204mの打吹山にかつて築かれた山城

打吹山は山名氏の居城、打吹城が築かれた地です。

山名時氏(やまなときうじ)は、上野国(こうずけのくに)(群馬県)新田氏の一族で、足利尊氏(あしかがたかうじ)に従って活躍し、伯耆の守護となりました。
時氏は、倉吉平野の一角、天神川中流に位置する因伯の交通の要、倉吉に着目。
田内に城を建設して商工業者を集めました。城下には定期市が開かれるなど活況を呈したといわれています。
そして時氏の子、師義(もろよし)が打吹山に打吹城を築城したと伝わります。

時氏、師義父子は、伯耆、因幡、隠岐、丹波、丹後、但馬などの守護を兼ね、領土を拡大。
その後、時義の代には一族の他の領土を加えると、全国の6分の1を領有していることになり、「六分一殿」(ろくぶんのいちどの)と呼ばれるほどの隆盛を誇りました。
しかし、室町幕府の三代将軍足利義満はこれを喜ばず、山名一族の離間をはかり、紛争が起こるよう企みました。
八代将軍義政の時代には、応仁の乱が勃発。
山名宗全が西軍を率いて細川氏と11年間にわたって戦ったが、乱後、山名一族は急速に衰退したといわれています。

応仁の乱以降、戦国時代は倉吉も戦乱に巻き込まれ、尼子氏、毛利氏、南条氏(湯梨浜の羽衣石城主)と城主が代わっていきます。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後は米子城主の中村氏が伯耆国を支配していましたが、1609年(慶長14年)に中村忠一氏が急逝。
後継がなかったため、江戸幕府の直轄の天領となりました。
1615年(元和元年)には一国一城令が出され、伯耆国では米子城以外の城郭が取り壊され、打吹城は廃城になりました。

#歴史に触れる #白壁土蔵群・円形劇場周辺

INFORMATION

住所
鳥取県倉吉市仲ノ町
電話番号
0858-22-1200(倉吉白壁土蔵群観光案内所)
駐車場
観光駐車場を利用
施設データ
打吹城跡・備前丸跡は櫓は残っておらず、石碑が立っています。
正面展望台は櫓を模した形をしており、町並みを望むことができます。
HP・SNS

[打吹山] https://www.kurayoshi-kankou.jp/utsubuki-mt/

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